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宜湾朝保生家跡(ギワンチョウホセイカアト)
人物
琉球処分直前の三司官(さんしかん)で、和歌人としても著名な宜湾朝保の生家跡。
宜湾朝保は、1823年に首里(しゅり)で生まれた。生家の宜湾家は向氏(しょううじ)小禄御殿(うどぅん)の分家で、宜野湾間切(ぎのわんまぎり)の総地頭家(そうじとうけ)でもあり、三司官を二人も出した名家である。
宜湾は、表(おもて)十五人の名職を歴任し、1862年に三司官に任じられた。1868年に明治政府が成立すると、1871年に維新慶賀使(いしんけいがし)の副使として上京した。尚泰(しょうたい)を琉球藩王にするとの命を受け、喜んで帰国した。
1875年に琉球処分が具体化しはじめると、宜湾ら維新慶賀使の責任として世の非難を浴び、同年に三司官を辞職した。翌年失意の内に54歳の生涯を閉じた。
宜湾は、王朝時代を代表する和歌人で、後に宮中歌道御用掛(きゅうちゅうかどうごようがかり)となった薩摩(さつま)藩士八田知紀(はったとものり)に師事し、和歌集『沖縄集』・『沖縄集二篇』を編集した他、私歌集に「松風集」がある。
なお、宜湾の家名は、尚泰の次男尚寅(しょういん)が1860年に宜野湾間切を領して宜野湾王子と称したため、同名を避けて改名したものである。
項目 | 内容 |
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所在 |
那覇市首里赤平町1-4-1
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場所 | 旧首里 |
備考 |
1998年(平成10)8月設置。平成9年度旧跡標示事業。モノレール儀保駅より南へ徒歩約3分。
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